
はじめに
はじめまして、すこです。
特殊な界隈で前期の覇権アニメと囁かれている前橋ウィッチーズの感想記事です。
常に驚きを提供しつつも、『女の子が歌って踊るアニメ』としても順当に楽しめる、しかし時々意味不明、そんなアニメでした。
そんなMBW(アンリミテッドブレイドワークスみたいでかっこいいというツイートを見かけました)について、個人的な感想とか考察みたいなものをだらだらと書いていきたいと思います。
できるだけ自分の言葉で書きたいなと思ったので人の考察や感想はほぼ見ていませんが、ちょっとは見たので内容にすこし影響しているとは思います。が、おそらく前橋ウィッチーズのメタフィクション性にこんなに真摯に向き合っているブログはないです。
追記:書いてる途中で意味わかんない言い回しが多数登場しますが、書いてる側は楽しいです。大学入試に出てくる論説とか書いてる人の気持ちになってます。
ネタバレへの配慮は一切しないので未視聴の方はブラウザバック推奨です。
前橋ウィッチーズは「「女の子が歌って踊るアニメ」」である
前橋ウィッチーズとは、また「お花屋さん」とはどういう存在だったのでしょうか。結局その正体については明示されないままアニメシリーズの放送終了を迎えてしまいましたが、ここでは一つの解釈を提示したいと思います。
それは「お花屋さんはアニメ(フィクション)世界のメタファーである」という解釈です。
作中に登場する魔法は、とても万能なものでした。アズの体型をスリムにしたり、でかいチョコケーキを召喚したり、記憶を共有したり。にもかかわらず、お客さんの問題解決に魔法を使ったことは(ほぼ)ありません。願いを叶えるためにすることと言えば、歌って踊るだけ。問題らしい問題を直接解決したことは(ほぼ)ありません。魔法使えんのにふざけてんのかという感じですが、逆にこれこそがMBWをMBWたらしめる核の部分だと考えることができます。
劇中に登場する「女の子が歌って踊る様子を見て元気を貰う」という構図はMBWを見ている層にとっては馴染み深いものです。MBWなんて見ている人はだいたいラブライブやアイマスにとどまらずリステやシャイポ、音楽少女にセレプロも見ているに違いありません。
MBWに登場する「お花屋さん」あるいは「シャッターの向こう側」はフィクション世界、とりわけ女の子が歌って踊るアニメーションの世界のメタファーだと考えると、MBWというアニメ自体がこの構図をテーマにしているという解釈にも妥当性が見えてくるかと思います。フィクション世界ではかなり好き勝手に魔法が使える一方で、現実世界に直接的な影響を及ぼすことは難しい。これはケロッペが「アズの体型を現実でどうにかすることは(事実上)不可能だ」と言っていたこととも整合します。
そんなわけで、社会問題の無くならない息苦しい世の中で、「女の子が歌って踊るアニメ」は問題そのものは解決できないけど、人々の心に花を咲かせ、願いを叶えるんだ!と。そんな信念を訴えかけていたのが前橋ウィッチーズだったのではないでしょうか。
個人的には女の子が歌って踊るアニメとしての性質に加えて、解決が難しい問題に対しては「固定観念をひっくり返す」、いわば精神的革命のようなポリシーも感じましたが、さっさと公開したいので今回はもう言及しません。
話は若干変わりますが、女の子が歌って踊るアニメと言うのは、女の子が歌って踊るだけではありません。それではアニメーションMVになってしまいます(それも好きです)。次の章では、女の子が歌って踊るアニメ(長いので次からアイドルアニメとします)とはなんなんだ、という話を、MBWの主人公ユイナに着目しつつしていきたいと思います。
ペラペラ系主人公ユイナ
MBWのメインキャラクター5人はいずれも個性的な性格をしていて、彼女ら(とケロッペ)の掛け合いを聞くのも面白いアニメでした。中でも特筆すべきは主人公のユイナです。彼女は明るく、元気で、人との繋がりを大事にして、少し抜けているけど本質的なところはよく理解していて、何より心がすごく綺麗なキャラクターでした。各キャラ担当回のトラブルはだいたいそんな彼女の口から発せられる綺麗事によって解決します。これは見ていて非常につまらない部分でした。他の4人が人間臭い部分と戦っている一方で、主人公のユイナは人格が完成されていて、正論を言って場を収めてしまう。まさに悩みに対して解を示すためだけに存在するキャラクターといった感じで、当時はまったく面白みが感じられませんでした。こんなに変なことをしているアニメなのに、解決パートがこんな平凡でいいのか、聖人主人公が正論パンチするだけでいいのかと納得しきれずにいました。
その認識が180°変わったのが第10話「今日のこと、忘れても忘れないよ」でユイナが友達が全然いないとメンバーに告白するシーン。アイドルアニメ主人公のテンプレのような人格であり、フィクション世界ではメンバーの中心であったユイナが、その人間味のなさ故に学校という現実世界では孤立していたことが判明した瞬間でした。第2話の表題であった「服もあんたもペラッペラ」というアズのセリフは仲良くなる前の単なる嫌味ではなく、ユイナのキャラクター性を的確に捉えた言葉であり、今までの聖人すぎる立ち回りをメタ的に批判する言葉だったことに気が付かされました。さらに面白いところは、この人間味のなさを肯定的に捉えている点です。4人はこのペラペラさに救われたみたいなセリフがどこかにありましたが、ユイナをある種物語の都合で動かされている「テンプレ聖人主人公」だと明示した上で、その存在が登場人物の救いになり、アイドルアニメとして物語を動かしているエンジンなんだと主張する。このために10話までユイナの孤立を隠していた構成の手腕には驚かされます。
話は戻りますが、アイドルアニメとは、目標に向かって女の子たちが努力する過程を通して、キャラの人間的成長やキャラの救済、そしてその後の「歌って踊るパート」を見せ、視聴者にポジティブな影響を与えようというアニメのことではないでしょうか。であれば、ユイナのある種不自然な性格こそが、他のキャラを救い、結果として視聴者の心に花を咲かせる鍵になる。言い換えれば「アニメならではの大げささ」を力いっぱい肯定しているということになるかと思います。
また、ユイナの性格がアイドルアニメを象徴していると解釈できる描写として、12話「魔女はもういいかなって」における5人のやり取りがあります。彼女は「魔女になる」という目標ではなく、努力の過程における友情やそれに付随する青春を大事にしていました。これは作中でドーナツ型おまんじゅうに喩えられているように、過程を大事にするユイナなりのメッセージであり、アイドルアニメの本質に通じる考え方ではないかなと思います。
フィクションの限界と可能性
ここまででMBWは「ご都合満載なアイドルアニメにこそ、現実の人間を元気付けるパワーがある」という主張をしているんじゃないか?と言う話をしてきましたが、作中ではしっかりデメリット、言い換えればフィクションの限界にも触れている描写があります。
代表的なものは9話「前橋ウィッチーズは永久不滅」でエイコがブチ切れるシーン。前橋ウィッチーズの5人はエモエモな仲の良さをバチバチにエイコに見せつけ、ついには夏期講習帰りのエイコに「魔女見習いになる決心固まった?」と聞いてしまいます。エイコは彼女らに背中を押され、医者の道を志すものの現実は上手くいきませんでした。学力が足りないという現実の問題に対して、フィクションができることは限りなく小さい。綺麗ごとで自分の背中を押しておいて、後のことは全く保証してくれない。そのくせフィクション世界ではなんでも魔法で上手くいって、5人で永遠不滅とか言ってしまうくらいには仲良くなって、部外者にも心を開く、そんな理想的なアニメの世界の住人。こんな前橋ウィッチーズはエイコにとってあまりにも現実離れしていて無責任なものに見えたのでしょう。結果としてブチギレてお花屋さんを破壊してしまいます。これはまさにフィクションの限界を示唆している描写ではないでしょうか。
11話「......どちら様ですか?」でのエイコのセリフ「あんたたちだけ幸せになるなんて許さない!」からもこの現実とフィクションのギャップに対する問題提起が見て取れます。その後エイコは感情を吐露し、再度5人の歌う「今は小さな蕾でも」を聞いて夢へ進む気持ちを取り戻します。5人はエイコにガラスの花を渡し、空から来た電車はエイコだけを乗せて出発。
これはフィクションの「現実感のなさや無責任さ」に気づかされ、一時は憎悪に飲まれたエイコが、フィクションはフィクションであるという自覚の元、未来へと進んでいく力を受け取ったシーンではないかと考えています。最初はフィクションと現実の区別なんてついていなかったから妄信して失敗した。でも、フィクションの欺瞞に自覚的な大人になったとしても、フィクションを見て感情を発露させて気持ちを整理したり、メッセージを受け取って現実にまた向き合うことはできる。そんなメッセージを感じました。
またフィクションの限界に言及しているポイントとして、お花屋さんに通じるシャッターには「貴方が望むならOPEN」と書かれていることが挙げられます。アニメは自発的に見てくれる相手にしかメッセージを届けることはできない。こんなにも人の背中を押す力があるのに、アニメ側から現実に干渉することはできないという一種の白旗だと感じました。だからこそ、チラシを配ったりしているわけです、と言う描写もありましたね。
ケロッペとまぽってなんだったんだ?
MBWのメタフィクション性を語る上で欠かせないのはケロッペです。彼は次回最終回!とかCパートあんの?とか言っていてこちら側の人間であることが明示されています。ここではケロッペに関する説を二つ提示したいと思っています。
1つ目は、我々と同様に視聴者であるという説です。ケロッペの背中にはチャックがついており、最終回のラストではそれを開ける示唆的な描写がありました。このことと不干渉を貫く立場から、前橋ウィッチーズというフィクションを見守る第三者のメタファーとして登場しているという説です。
しかしこの説ではまぽがなんなのか、十分な説明を得ることができません。まず、まぽには「便宜的な目標」という性質があることは言及しておきます。ラブライブ!におけるラブライブ!優勝がまぽ100000であり、廃校阻止が魔女になることというとわかりやすいでしょうか。「女の子が頑張る話」を描きたいから目標を設定しよう、というやつです。MBWはメタフィクションなので「なんかご都合で目標の数字が決まってんな」と思われるくらいのバランスでちょうどよかったんだと思います。それはそれとして、まぽが溜まっているとケロッペがデブになる、という状況はケロッペ視聴者説では全く説明できません。そこから2つ目の説が出てきます。それは、ケロッペはアニメの制作者(例えば監督)であるという説です。ケロッペはフィクション世界ではまぽを使って好きなだけ魔法を使うことができます。このまぽ、というのがアニメの制作費です。製作費をどう集めるのかと言えば、もちろんアニメをお客さんに見てもらう他ありません。つまり、前橋ウィッチーズにおいてケロッペがアニメを制作し、現実世界の客にフィクションを提供してお金を得ている。お金持ちになるとケロッペが肥える、というロジックです。
この説は自分では割といい線いってるんじゃないかと思ってますが、いかがでしょうか。もしかしたら全然違うかもしれません。
おわりに
ここまで駄文を読んでいただきありがとうございました。
以上が前橋ウィッチーズの感想と言うか考察と言うかでした。こういうめんどくさいこと抜きにしても驚けるし感動できるアニメだったので、まだ見ていない人(見ていない人は読んでいないと思いますが)は見てみてください。
個別回もなかなか面白い回が多かったので言及したかったんですけど、分量がすごいことになって時間がかかる上に誰も読んでくれないことが予想されたのでやめました。飲み会とかで話せる機会があったら話します(邪悪)。
それでは。